うふふ♪ (08年に書いたもの)
気持ち悪いタイトルでごめんなさい。自転車雑誌を眺めていたら、寒波じゃなくてカンパ(イタリアの自転車パーツメーカー)が11速を出すとか、シマノ(日本の自転車パーツメーカー、カンパと競っております)が最初ではないけれど、電動変速システムを出すとか書いてあるんで、自分の自転車との関わりを思い浮かべながら、うふふ♪となってしまったわけです。
自転車ネタゆえ、ここで、ひいてしまう方も多いかと思いますが、思いきり過去から振り返るので、どこかで、そういえばと思うところがありましたら、何かしら、コメントがいただけたら嬉しい限りです。
<私の自転車との関わり>
○小1(1966年、1月、常磐ハワイアンセンター<現スパリゾート・ハワイアンズ>開業)
親友の自転車の後ろに乗せてもらい、砂利道の坂道を下る途中、スピードが出すぎて落車、血だらけになりながらも、自転車を借りて乗る練習、支えてもらっていた荷台の手を離されたことに気づかず、ペダルを漕ぎ続け、自転車に乗れるようになったのでした。
○小学校時代
大人の自転車を三角乗りで乗りまわしてみたのですが、直角コーナーを曲がる際に、自転車を倒しすぎて、こらえきれずに、崖下の田んぼに転落して、泥だらけになりました。頭から、田んぼに突っ込んでいたら、危なかったかも(汗)。
○小学校6年(1971年、2月、アポロ14号が月に着陸)
中学校へは自転車通学になるので、マイ自転車を買ってもらえた時期です。当時、5段変速は画期的でした。ペダルを漕げば、どこまででも行けそうな気がした時代です。夏休みに友人と猪苗代湖までのツーリングを計画して挫折した時期でもあります。計画が危なっかしくて、親たちから反対をくらって断念したのでした。確かに無謀だったと思います。
○中学校時代
雨の日は雨合羽、毛虫の大量発生にも、冬の寒さにも負けることなく、3年間、坂道の多い往復9kmの道のりを自転車で通い通しました。
○高校時代
自転車~汽車~バスという遠距離通学でした。坂道の多い往復13kmを自転車で通いました。汽車にぎりぎりで飛び乗ることも多く、ハードな走りをしたので、基礎体力がついた時期でもありました。
文系クラブに少々所属したものの、基本的に帰宅部の私が、スポーツテストで、50m走、走り幅跳び、垂直跳びなどなど、並み居る体育部の連中を差し置いて、いずれも、クラス2位の記録だったのは、自転車通学で鍛えられたおかげだと思います。
そこまでは良かったのですが、ぎりぎりで駅に駆け込むことも多く、鍵をかけないで、自転車を盗まれること3度、遂に、オヤジから歩いて通えと引導を渡され、数日間は歩いて通いました。通いましたが、さすがに、父が見かねて、代用車をあてがってくれました。情けなく、申し訳ない過去です。でも、その後、数十年も、このネタを引き合いに出されたんだよなあ。最近、ようやく、話題にのぼらなくなりました(汗)。
○大学(前半)
1年の時は、下宿から大学まで4km強、変速機なしのミニサイクルで通学しておりました。この頃は、ラックでも本棚でも、買い物したものを手に提げて、ミニサイクルで持ち帰るということを実践して、大概のものは自転車で運べるのだと、自信をつけた時期です。その後、テレビを担いだり、布団袋を担いで自転車で運んだりしたのも、この時に培った自信のなせるわざです。
○大学(後半)
酔った翌日の勢いで、ミニサイクルで往復90kmを走ってしまい、自転車の素晴らしさと、変速機のない自転車の苦しみを同時に味わい、バイトをして、ロードマン(6段変速?)を購入しました。大学の講義後は、ひたすら自転車に乗る日々が始まりました。この年の10月には、月間走行距離が、1860kmになりました。
大学3年の春休み、初のお泊りツーリング、東北一周の旅に出ました。輪行できない自転車でしたので、YHに泊まりながら、無事に完走しました。
○大学院時代
大学院1年の春休み、四国・九州・山陽一周の旅に出るため、輪行できるユーラシアに買い替えました。シュラフを担いでのツーリング、全行程、野宿で完走しました。
そんなに自転車が好きならと、自転車店の兄ちゃんに勧められ、4末にロードレースに初参戦、スポーツ車やトレーニングウェアで参加して恥ずかしい思いをしたのですが、ビギナークラスで2位入賞と気分を良くしました。
イノーがツールにエアロバイクを持ち込むということで、シマノが50億円を投じて風洞実験設備を設けて、デュラエースAX(7段?)を発表しました。結果的に失敗に終わったのですが、これを搭載したロードレーサーが格安でショップに並んでいたので購入して、秋のレースに参戦、2位入賞にて、さらに気分を良くする。
○社会人1年目(1983年、4月、東京ディズニーランド開園)
レースウェア、メット、サングラスで会社にロードレーサーで通い、変人扱いされる。レースに2戦参加して入賞するも、先輩から、優勝できなきゃダメじゃんと言われて、奮起する。
○社会人2年目(1984年、1月、マッキントッシュ発表)
開発業務が佳境に差し掛かり、レースに参戦できず。
○社会人3年目(1985年、3月、東北新幹線の大宮-上野間が開通)
デュラエースAX仕様のロードレーサーが、ハプニングで廃棄されてしまい、怒り心頭なるも、頑張った自分へのご褒美として、自転車を新調しました。
パイプは、コロンバスSLX、リムはマビックGL330、タイヤはビットリア コルサCG、パーツはシマノのデュラエース7400(8段)、ビンディングペダル、SIS(ブレーキレバーをひねってインデックス変速できるシステム)と、その後、しばらく、愛用するスペックが全て出揃った時期でした。
○社会人4年目(1986年)
秋に結婚を控えて、独身時代のうちに走っておこうと、レースにフル参戦。でも、10月に結婚した後もフル参戦でした(汗)。12月に愛妻を連れて参戦した浜名湖のレースで遂に初優勝。感激する。
◯社会人7年目(1989年)
草レースだけどツール・ド・ジャパンという大会のスーパーチャンピオンクラスでの初優勝。最高に嬉しかったかな。
それから、しばし、草レースに入れ込んで、会社からも理解をいただき、楽しかった時期です。
その後、パナソニック車を購入、これが直に盗まれて、しばらくして、セミオーダー車を作り、それが、なんと、伊豆箱根鉄道のバスに引っ掛けられて壊されて、再び、同じ仕様のセミオーダー車を作り、しばらくして、変速システムを最新のデュラエース7700(9速)に変更して、しばらく、経過しました。
そして、昨年6末に、アマンダスポーツさんに、初のカーボンフレームとなるオーダー車を作ってもらいました。長年、使ってきたデュラエースには、コスト面でバイバイして、アルテグラにしましたが、ここで、遂に、10速となりました。
現在の自転車で十分に満足なのですが、冒頭にも書きましたように、カンパからは、10速の次の11速が、シマノからは、初ではないのですが、電動変速システムが登場するとの話です。
次に、自転車を作る予定などは、まだありませんが、しばらくして、変速システムを更新する際には、10速システムがなくなり、全て11速になっているかもしれないなと思ったりするわけです。
リアが11速なので、フロントが2速なら22段変速、3速なら33段変速となるわけです。少年時代に画期的だと思った5段変速から、ここまで、進化してきたのだなと、改めて感慨にふけってしまうのでした。
でも、そこまで、いるんかい? 電動なんているんかい? という思いもあります。でも、その時々で、最新のメカを導入して、ああ、こんなに良いものだったら、もっと早く導入していれば良かったなと思ったことも多かったいうのが事実です。
凝り固まった先入観を持つ前に、素な気持ちで真摯に新製品に向き合う気持ちを忘れてはならないと思うのでした。
そうそう、タイヤは、チューブラー信者の私ですが、クリンチャーはどうかな? と少し興味を持っていました。でも、新たに、チューブレスという選択もポピュラーになるかもしれない予感。なんか、楽しみ。
※タイトルにも書いたように、この内容は2008年に書いたものです。自転車全般の記録は↓にあります。
http://shinkansen.la.coocan.jp/bicycletop.htm
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