運命

2010.05.03

私の場合

mixiニュースで見た記事にからんでmixi日記を書いたんだけど、ブログにも書いてみようかと思いました。

オトメスゴレンの「男性が急に結婚したくなるキッカケ9パターン」(↓)について
http://girl.sugoren.com/report/post_619.php

9パターンの中で言えば下記の2つが大きかったかな。遠距離だったので彼女に仕事をやめてもらって一緒になるには、仕事的にも経済的にも家庭を持てる自信が必要でした。

【2】仕事に自信が持てるようになったとき
【3】目標としていた貯金額を達成したとき

実際は、上記2つに自信が持てるよりも早く結婚しました。結婚を決意させるキッカケがありました。以前、ブログにも延々書いたことがあります。

愛妻と付き合いはじめたのは、お互い卒業まで1年半という学生時代の秋でした。一緒に卒業して社会人になるはずでしたが、私が進学を選んだため、学生と社会人で遠距離に、その2年後には私が社会人となり、さらに遠距離となりました。

このまま自然消滅かとお互いに思っていたのですが、入社2年目の残暑の厳しい時期に、彼女が勤務する都市の得意先に、開発していたシステムの納入立会で出張しました。月~金で完了する予定が大幅に延びて45日間連続出張となりました。

当時、完全週休2日制(祭日は勤務だけど土日は完全に休みというパターン)だったので、45日間あれば、最低でも10日以上の休日はあったはずなんだけど、立ち上がらないシステムに対する責任感から1日も休まず、食事とホテルに寝に帰る以外は、ほぼ納入先で過ごした激務の日々でした。

食事の時間やら僅かな隙間を使って愛妻とも合いましたが、数えるぐらいしか会えませんでした。半径5km圏内で愛妻も仕事をし住んでいるのに会えない(自分が自分を律していたせいなんだけど)ことで、一気に愛妻に対して結婚を意識するようになりました。その出張が、それも、すんなり終わらず長引いたことが結婚を決意させるキッカケとなりました。

仕事に対しては自信を持てましたが、経済環境が厳しかったです。給料は安いし、入社1年半で貯金も僅か、それどころか、約200万円の借金(学生時代の奨学金)がありました。それでも、入社3年目には婚約指輪と結納金を貯めることができ、秋に結婚にいたりました。

新婚旅行代は割り勘にしてもらいました。後で聞いたところによれば、愛妻は割り勘でと思っていたけど、義父に話をしたら怒りだしたとか、旦那側が全て出すのが当たり前というのが一般的だったのでしょう。私は自分の分を出すだけで精一杯でした。要するに、入社3年半で結婚した当時、僅かの貯金を全て使い果たして、奨学金という借金の未返済分を抱えていたわけですね。

それでも、ながすぎた春の後のママゴトのような新婚生活のスタート、それは幸せなものでした。こんなに幸せなら、もっともっと早く結婚すれば良かったと思いました。一人前になってから結婚と考えていたけれど、一緒になって一人前をめざすのもありなんだと思いました。

それにしても、あの出張が無ければ、愛妻とは結婚していなかったはず。不思議な縁を感じます。

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2005.04.21

運命(17)

社会人になって数年目の元旦、自分は、米沢の地を訪れていた。学生時代にお世話になった「細道」のオヤジさんから、遊びにおいでよと誘われたのだ。元旦は、オヤジさん、オバさん、お姉さんが、家族水いらずで過ごせる唯一の日なのに、そこに自分を誘ってくれたのが嬉しかった。

そんな招きに甘えついでに、自分は、仙台ですれ違いが多かった彼女を誘った。この場に、彼女を誘うということは、自分の中では、俺はコイツに決めたんだよという宣言をする気持ちもあったのだと思う。

昼前に「細道」を訪ねた。軽くお酒でも酌み交わそうという趣旨だったのだが、蓋をあけてみれば、オバサンとお姉さんの美味しい手料理のオンパレード。圧巻は、松茸尽くしだ。この松茸は、オヤジさんが、自分で採ってきて保存していたもの。そう、オヤジさんは、松茸採りの名人だったのだ。これらのご馳走と、懐かしい会話に盛り上がり、酒はすすむよ、どこまでも。気がつけば、オヤジさんと自分だけで、日本酒を2升も空けていたんだよね。

そろそろお暇の時間、彼女と自分が、おのおのの実家に帰る電車の時間まで、一時間ほど余裕があった。そこで、かつて、下宿していた大家さんに連絡を入れてみたところ、お出でお出でとウェルカム。元旦に酔っ払ってご機嫌の自分、そして、彼女は、大屋さん宅を訪ねたのだった。

大屋さんと言っても、自分と一回りも歳が離れていないお姉さん。我々は、愛を込めて、オバサンと呼んでいたのだが。久しぶりの再会に盛り上がったのも束の間、自分は、日本酒の酔いに意識を失いかけていた。そんな自分をさておいて、オバサンと彼女は、いろいろな話をしていたらしい。

二人が乗らねばならぬ電車の時間が近づいたのだが、完全にグロッキー状態の自分を見て、オバサンは彼女に泊まっていきなさいと言ったらしい。意識をなくして、気持ち悪さと戦っていた自分には、どんなやり取りがあったのか知る術もない。こうして、元旦から、かつてお世話になった大家さんの客間にお泊りすることになった、自分と彼女。そんな状況を認識したのは、猛烈に喉が渇いて水を欲した翌朝のことだった。

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2005.02.27

運命(16)

彼女の住む仙台への出張は、残暑の厳しい9月中旬頃ではなかったかと思う。確か、半袖のシャツに慣れないネクタイを締めて出張したように記憶している。月曜~金曜で搬入、立ち上げ、引渡しというスケジュールだった。

ところが、いざ蓋を開けてみると、完成しているはずだった得意先機器とのインターフェースが完成していない。現地での調査・解析を踏まえて、作りこむ回路も残していたのだ。そちらを担当するのは、G社のTさんだった。自分は、本システムの方の立ち上げに専念するが、こちらも、コンピュータの調子がよろしくない。そんでもって、最も、肝心のハードウェア本体でトラブル発見、たちまち、暗雲が立ち込める。

それからというもの、朝、昼、夜、朝と、得意先のシステム室に張り付く日々となる。外に出るのは、食事に出る僅かな時間だけ、得意先の方々が帰られてからでないと出来ない作業をしていると、あっという間に、午前0時を回ってしまう。そうなると、セキュリティシステムが作動し外に出られなくなるので、結局、朝方まで、ビル内に居ることになった。

昼を食べた後に、ホテルに戻り、シャワーを浴びて仮眠、そして、夕方には、また戻る。あっという間に、こんな日々が2週間も続く。今、思い返しても、当時は良く働いたものだ。土日もなく、働き続けたのだから。そのうち、朝晩は冷え込むようになり、Fデパートでカーディガンを買ったことが懐かしい。

10月に入っても事態は好転せず。そのうち、会社では事業部の新設に伴い、所属グループの組織変更もあった。出張先滞在中に、組織が変わり、多分、机なども移動されているのだろうが、そんなことを考える余裕もなく、システムの立ち上げに没頭した。

そろそろ先が見えてきた休日、得意先では芋煮会を開催するとのことで、誘われたのだが、仕事を優先して辞退した。こうして、夜昼なく働いて、なんとか引き渡すことができた。1週間の出張予定は、結果的に、45日間の出張となった。

約1ヶ月半も彼女の住む仙台にいながら、彼女と会えた回数は片手にも及ばなかった。それも、晩飯を食いに出る時間だけ待ち合わせて一緒したりという程度のものだった。こんなに近くに居るのに、なぜ、会えないのか?、お休みもないのか?と思うところだが、当時は、そういうことだったのだ。でも、彼女は、自分が置かれている状況を含め理解してくれようとして、暖かく見守ってくれた。

会えそうで会えない中での、彼女の思いやりを感じるうちに、冷めかけていた気持ちに変化を感じた。はっきりしなかった自分の気持ちが、ある方向に流れ出すのを感じた。

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2005.02.07

運命(15)

5月に白河の地でサイクルロードレースとの鮮烈な出会いがあってから、日増しにレースへの想いは強まった。次のレースに参加したいという想いにかられた。ただ、参加するからには、レース仕様の自転車で出たかった。また、結果はどうであれ、レースの話を一緒にできる仲間と参加したかった。

そこで、たまたま処分価格で売りに出ていたロードレーサーを、なけなしの金で購入した。メーカーはツノダ、世界広しと言えども、ツノダのロードレーサーでレースに参加したことがある人は、皆無に近いだろう。それぐらい、素人の自分だった。ただ、この自転車には、初心者の自分をくすぐる要素もあった。パーツは、シマノのデュラエースAX仕様だった。AXと言えば、エアロ仕様、空気抵抗削減を目指した最高級モデルだった。勿論、フレームも涙滴型(空気抵抗を減らすために扁平になっていた。ただ、その分、重量がアップするという本末転倒のような作り)だった。このモデルの売りは、世界のトップクラスの選手が1000mを走ったとして、空気抵抗削減効果により、理論的には、タイムを0.6秒程度短縮できるというものであった。草レースの世界では、その数値に、どんな意味があったのかは、はなはだ疑問ではあるが。

そんなことはともかく、自転車を調達した後、自分が選んだ2戦目のレースは、10月に岩手県江刺市で開催される東北GPであった。そして、仙台に住む彼女と、仙台に勤務していた学生時代の友人A君をレースに誘った。こうして、仙台まで行き、A君の車で岩手を目指したのだった。

前回のビギナークラスからステップアップして一般クラスにエントリーした。前回の反省を活かして走るものの、結果は、やはり2位だった。同行した彼女とA君は、自分の走りには全く期待していなかったらしく、その走りとスピードに驚いていたが、自分は、表彰台に立ちながらも、1位を取ることの難しさを改めて痛感していた。

こうして、学生生活最後の年は終わった。自分は、東京の会社に就職、ようやく、彼女と同じ社会人になったわけだが、二人の物理的な距離は、さらに遠くなった。配属先は、当時、佳境を迎えていたシステムの開発チームであり、仕事に没頭する日々となった。

彼女と会う頻度は、さらに間隔があき、重たさも感じつつ、お互いに先が見えないでいた。会えば楽しい彼女との逢瀬も、次第に重くなりつつあった。仕事に埋没しながら、時々、同僚や同期の連中と遊ぶぐらいの軽い関係に逃げ道を見出している自分がいたのも事実。彼女も、そんな状況を認識したいたと思う。

そんな社会人1年生ながら、レースには2戦ほど参加した。金沢でのレースは、マウンテンポイント賞をゲットするも、ゴールは、またもやの2位だった。先輩からは、「万年2位だな、決定力にかけてるんじゃないの」と冗談で言われるが、それは、真実を言い当てていたように思う。そして、再び、東北GPへのエントリー。一年前同様、3人で臨んだ4戦目のレース。自分は、最上級のチャンピオンクラスにエントリーした。

そのクラスには、市民レース界の超有名人、中村仁さんがディフェンディング・チャンピオンとして君臨していた。しかし、1位でゴールしたのは、大石選手(後にオリンピック代表となったあの大石選手)、若者のクラスには、後に競輪界のスターとなる神山雄一郎選手もいた。そんな中、仁さんは2位、自分は6位入賞だった。このクラスでは、1位、2位を争う方々の格の違いを痛感することになった。

こうして、社会人1年目は終わる。2年目は、春先に開発1号機がユーザーに納入された。その立ち上げで3ヶ月ほど、客先に通い、昼夜なく働く日々。そんなわけで、レースへのエントリーは断念した。そんな中、残暑の頃に、彼女の住む仙台のユーザーへの納入が決定した。そして、1週間の予定で自分が立会いをすることになった。

離れかけていた彼女の住む街への出張、それは運命を予感させる出張であった。

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2005.01.26

運命(その14)

彼女を見送ってから、まもなく、新たな出会いが二つあった。

その出会いのキッカケは一ヶ月ほど前に遡る。四国・九州・山陽ツーリングを終えた自分は、愛車エンペラーを購入した西沢輪業さんを訪れ、店主夫婦にツーリングの土産話をしていた。すると、店主の息子さんが現われて「そんなに自転車が好きならレースに出てみない?」と言ったのだ。

当時の自分は、レースと言われてもピンと来なかった。レース→競輪→ギャンブル?、でかヘルメットを被りレーサーパンツがきしょい・・・そんな印象しかなかったので引き気味だった。でも、兄ちゃんは、草レースだから、面白いから、何事も経験だから、何の準備も経験もいらないから・・・と勧誘するんで、遂には、エントリーしてしまった自分。

そのレースは、丸石自転車が主催するロードレースだった。会場は、実家の須賀川から30kmほどの白河市が会場だった。それが、白河との最初の関わりだった。まさか、将来、その白河市に住み、東京まで新幹線通勤するようになるとは、これっぽちも思わなかった。白河との出会い、これが一つ目の出会いだった。

前日に実家に帰省し、レース当日、約30kmほど離れたレース会場まで自転車を走らせた。会場に行ってビックリした。自分のようなスポルティーフ車を持ち込んでいる人間は1人も居なかった。ましてや、スニーカー履いてトレパンにTシャツ姿の奴なんか、1人も見当たらなかった。皆、バリバリのレーシングウェアに身を包み、高級なロードレーサーにまたがっていたのだ。カルチャーショックを受けながらも、主催者テントで競技用ヘルメットをレンタルして自転車に戻ろうとしたら、自分の自転車んも周りに人垣が出来ていた。「見ろよ、こんな自転車でレースに出る奴がいるなんて(笑)」。

凹んだ。彼らが立ち去って見えなくなるまで自分の自転車に近づけなかった。兄ちゃんを、ちょっと恨んだ。でも、ここまで来た以上、逃げ帰るわけにもいかない。そんな複雑な思いでスタートラインに並んだ。初心者しかいないはずのビギナークラスだったけれど、自分以外の皆は、服装も自転車も一流選手のようだった。

そして、スタート。皆のスピードについていけるかと心配したが、一流選手に見えた彼らは、駆け引きや牽制ばかりしていて誰も飛び出したりしない。スピードをセーブしながら、不慣れな集団走行をするよりはと思い、前に出てみた。最初のうちだけも前を走ってみようと思い、ペダルを強く漕ぎ、ふと後ろを振り返ったら、集団がちぎれていた。こうなってしまうと、単細胞人間の自分、そのまま、ペダルを漕ぎ続ける。嘘だろう。自分が先頭だよ。誰も追いつかないよ。舞い上がってしまった自分は、そのまま走り続けた。そして、いよいよラスト1km、ここで、後続集団から1人抜け出して、追い上げてきた。彼が、泉浩司選手だった。ゴール手前で彼に抜き去られ、最後は、息も絶え絶えになりながらも、自分は2位でゴールした。

最初から最後まで先頭を引いて、最後に抜かれて終わる、いかにもレース未経験者の未熟な走りだったのだが、あんな格好で、あんな自転車でと思っていた方々から、「凄い走りだったね、頑張ったね」と声をかけられ、水筒まで手渡された。からからに乾いた喉に、おいしかったことといったら、この上なかった。

自分としては2位でもビックリの成績だったが、1位の泉君は、表彰台の一番高いところで、チャンピオンジャージを身にまとい、大きなトロフィーを手にしていた。さらに、全クラスを通じて、活躍した選手に贈られる賞も受賞していた。2位になった喜びと、2位に甘んじた悔しさが入り混じる、不思議な気持ちだった。この自転車レースとの出会いが二つ目の出会いだった。

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2005.01.21

運命(その13・・日の金曜日)

駅までの3kmの道のり、自転車のペダルを必死に漕いだ。悪いことをした、俺はひどい奴だ、彼女に会わせる顔がないなどと、あれこれ思いつつも、じっとしていることができなかった。今から駅に向かっても間に合わないだろう。彼女は既に車中の人になっている、ひょっとしたら、もう帰り着いているかもしれない。

駅に着くと自転車を停めるのももどかしく、駅構内に入った。そこに、彼女がいなければ、そこで終わっていたかもしれない。しかし、そこに彼女はいた。電車の間隔が1時間以上も開いている路線だ。前の電車にギリギリで乗り損ねた彼女は、一分一秒でも早く立ち去りたい地で、次の電車を1時間以上も待たねばならなかったのだ。そんな電車事情のおかげで、彼女を捕まえることができた。

自分の話を聞きたくもなかったのだろうが、延々と待たされて、それでも来ない電車、いい加減、そっちにも呆れてしまい、最後に自分の言い訳でも聞いてやろうかと思ってくれたらしい(多分)。こうして、駅前の茶店であれこれ話すことになった。何を話したのかは、さすがに思い出せないが、粘り強く彼女を引きとめにかかったことだかは、間違いない。

そうこうして、やっとこさ来た電車に乗り、彼女は帰っていった。切れかけた二人の関係は、かろうじて、細い糸一本で繋がりを保っていた。まさに、そんな状態だった。

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2005.01.19

運命(その12)

こうして、2回目の合同芋煮会は終わった。座敷からエスケープしてカウンターでコップ酒を飲んでいた自分と合流したTは、いつしか、お店のオジサン・オバサンとも意気投合し、また一緒に飲もうという約束をしていた。こうして、Tとは、コップ酒を一緒に飲むという不思議な関わりができた。彼女に対して後ろめたい気持ちを感じる部分もあったが、遠く離れて少なからずすさんだ心が、天真爛漫なTを見ているだけで、癒されるような気がした。

いつしか長い冬が終わり、春の訪れが感じられだした頃、自分は2年ぶりのツーリングを企てていた。前回は北の東北だったので、今回は南へ行こうと考えた。さらに、南なら暖かいだろうから野宿にしようと決めた。こうして、四国~九州~山陽、12日間、2000kmの野宿ツーリングは決行された。南は暖かいという大きな誤解を体をもって知ることになるのだが、大歩危小歩危、阿蘇、桜島、霧島、雲仙というハードなコースも走破して大満足のツーリングだった。

そして、GW、彼女が遊びにやって来た。自分は、上杉祭りにアルバイトがあり、それが終わるまで、部屋で待っていてもらった。その時は、確か、獅子神楽の中に入る役割だった。パレードを終えて、部屋に戻ると、待っているはずの彼女が見当たらなかった。机の上に目をやると、自分がメモ代わりに使っていたノートが開かれた状態で放置されていた。そこには、彼女からのサヨナラのなぐり書きがあった。馬鹿野郎とも書いてあった。

自分が帰ってくるまでの間、退屈した彼女は、「メモ帳」と書かれた大学ノートが目に留まり、何気なく開いてみたのだ。なにやら日記風だ、見てはいけないと思いつつも、自分の事が書いてあるのではと、ページをめくってみた。そしたら、自分のことではなく、Tのことが書いてあったというわけだ。遠く離れて、何となくすれ違いを感じてはいたが、そういうことだったのかというわけだ。Tとの関係は、依然としてコップ酒の関係で、それ以下でも以上でもなかったのだが、そんな関わりで心が癒されていた自分がいたのは大いなる事実。

彼女は、今頃は、電車に揺られて、帰路についているはず。でも、誰も居ない部屋でじっとしてもいられず、自分は、ダメもとで駅に向かった。

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2005.01.15

運命(その11)

とある秋の休日、下宿の合同芋煮会が開催された。我が下宿は、自分以外は学部生(4年、3年、2年)、相手は短大生、要するに、自分が最年長というわけだ。河原での芋煮をさりげなくこなし、2次会は、自分が行きつけの「細道」の座敷で行われた。それなりに楽しかったのだけれど、頃合いを見計らって席を立ち、カウンターに移動した。後は、若い者に任せようっていう気持ちがあったんだよね。なんか、遠距離でお付き合いしていた彼女のことを考えたりして、気がのらないこともあったしね。

カウンターでは、いつものように、コップ酒をいただきながら、店のオジサン、オバサンとの会話を楽しんでいた。若い娘達との話よりも、落ち着くんだよね(かなりジジ臭いが)。当時、暖簾を降ろしてから、いろんな話をしながら、一緒に酒を飲むこともあったからね、相当、お店に馴染んでいたのだと思う。

しばらくして、トイレで席を立った女性陣の1人Tが、カウンターの自分を見つけて声をかけてきた。「一緒に飲まないんですか?」、「もう年だからねえ、ここで、ノンビリしようかと思って」、「そうなんですか。何を飲んでいるんですか?」、「コップ酒」、「ちょっと隣に座っても良いですか」、「いいけど」・・・初対面のオジサン、オバサンも、キャピキャピしておらず、気さくな彼女が気にいった様子。彼女は、コップ酒を飲んでみたくなったようだった。こうして、お座敷からエスケープした2人はカウンターでコップ酒を飲むことになったのだ。話してみると、裏表のない、性格の良さそうな娘だってことが分かった。コップに酒が注がれ、受け皿にめ一杯、こぼしてもらうのを喜んで、嬉しそうに日本酒を飲む姿も面白く感じた。なんか、久しぶりになごんだ。

そうして、宴は終わった。全員で短大の寮まで送ってお別れとなるわけだ。気がつくと、Tの自転車に乗っているのは自分、そして、後ろにはTが座っていた。こうして自転車に2人乗りをして送ることになった。なぜ、そうなったのか。そこに自転車があったから・・・

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2005.01.14

運命(その10)

同じく卒業とは言えど、2人の進路は微妙に違っていた。彼女は、仙台の銀行へ、自分は、大学院への進学を選択したのだ。3月の雪がちらつくとある日、この地を離れる彼女を見送った。舞台は東京ではなかったけれど、当時の心境は「なごり雪」の歌詞のようだったのだ。走り出した列車のデッキに立ち、手を振りながら笑顔で去っていく彼女、見送る側としては辛い部分もあったけれど、列車が完全に見えなくなったときに、何かがプチンと切れたような気がした。

春が来て、学生を続ける自分と、社会人になった彼女、距離的にも離れて、それぞれの道を歩み始めた。お互いに、お互いから卒業したような気持ちを感じつつも、遠距離でのお付き合いは、かろうじて続いていた。

自分の方は、大学での研究、研究室の後輩との関わりと、男ばっかりだけど、充実した日々を過ごしていた。研究室にランニング好きな人間が居たこともあり、毎日、夕方に講座の連中と走るようになった。こうして、秋には、標高700mの温泉がゴールの25kmマラソンに参加するまでになり、そこで3位となり、走る喜びを知る。さらに、学年対抗の駅伝大会にも参加、区間賞を記録するなど、記録や順位を求めて走る喜びに目覚めた。自転車も続いていた。彼女の住む、仙台まで自転車で会いに行ったことも何度もある。

こうして、互いの新しい生活を楽しみつつも、遠距離で繋がっていた、彼女と自分。そんなおり、下宿の後輩達の手によって秋の合同芋煮会が計画された。そうしたイベントからは卒業していたはずの自分も、参加することになった。

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2005.01.11

運命(その9)

cunmei9
自力で部屋に戻り、なんとか布団にもぐり込んだものの、酔いと睡魔で目の前は真っ暗、ぐるぐると回転しながら奈落の底に落ちていくような悪寒を感じながら、眠りに落ちていった。・・・しかし、その眠りは長くは続かなかった。誰かが、部屋に入ってきて、自分を起こそうとしているのだ。

その時には、訳が分からなかったのだが、つまり、こういうことだった。夜の12時に待ち合わせていた彼女が、タクシーで下宿前までやってきた。約束では、そこに、スキーに行く準備をした自分が立って待っているはずなのに、影も形も無い。下宿では、まだ宴が続いている様子。そこで、やむなく、彼女は下宿の誰かに、自分と約束している旨を伝えたのだ。その時の宴には、我々が出会うキッカケを作ってくれたI先輩も参加していた。事情を察知したI先輩の号令で、2階で撃沈している自分を起こしてタクシーに乗せろという話になったのであった。

約束がありながら撃沈してしまった自分、起きろと言われても、とても起きられる状態ではない。その時の記憶は断片的にしかない。その断片的な記憶は、吐いたという記憶ばかりだった。多分、部屋から担ぎ出されて、隣人のN君のドア付近に1げえ、タクシーに乗せられて走り出して間もなく「止めて!」と言って、ドアを開けてもらい、雪が積もる路上に2げえ、そんなこんなで、駅に着いた。I先輩がタクシーに同乗、駅まで送り届けてくれたのであった。そんなI先輩に手を振り、彼女と自分は、予定通り、深夜の急行列車に乗ることができたのだった。

2げえもしたのに、まだまだ回復しない自分。電車の揺れと局所的に効き過ぎの暖房により、ますます気持ちが悪くなる。ほとんど、半病人のように死んでいた。どこの駅からだったか、対面に同じぐらいの世代のカップルが座った。いつしか会話などをするのだが、3人の健康な人と1人の死人という組み合わせなので、もっぱら3人の会話。横になりながら、そんな会話をところどころ耳にしながらも会話に参加できず、気持ち悪さと闘っていた死人、そんな自分だった。秋田県内のどっかの駅で停車したおり、再び気持ち悪さがこみ上げてきた自分は、ドア付近まで行き、雪が積もるホームに3げえをした。彼女と2人で食べるはずだったお弁当は、対面のカップルの彼氏の口に消えた。

そんな最悪な乗客と連れ合いの彼女は朝早く田沢湖高原スキー場に着いた。こんな状態では、とてもスキーなど出来る状態ではないのだが、吐くだけ吐いた自分は、スキー場の雪と冷気にあたり、奇跡的な回復を遂げ、朝もはよから、ゲレンデを滑りまくる人となる。彼女は、これが初スキーだった。見事にリフトから降りた後の斜面で滑り込みをしていた(写真)。さんざん迷惑をかけておきながら、こんなシーンだけ、ちゃっかりカメラにおさめる自分であった。

雪質も良くスキーは最高に楽しかった。ゲレンデから見下ろす田沢湖も美しかった。宿で食べた「きりたんぽ鍋」も美味しかった。こうして、出だしはどうなるかと思われた、我々のスキー旅行も無事に終わった。卒業は、そこまで近づいていた。

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